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海を駆ける
Production Note
From Director

 2011年の12月に、京都大学とアチェのシアクアラ大学が共同で開催した津波と防災に関するシンポジウムの撮影を依頼され、初めてアチェを訪れました。そもそも、インドネシア自体が初めての体験で、見るもの全てが新鮮で、夢のような一週間でした。

 7年前の津波の日から建物の上に取り残された姿のまま保存されたボート、その周りで逞ましくみやげ物を売っているお婆さん、津波直後の水死体の写真が展示された記念碑、津波で家族が死んだのも神様が望んだこととあっけらかんと言ってのける運転手。すべてが日本における津波の受容の仕方とは異質に思え、強烈に価値観を揺さぶられました。「津波」と聞くとどうしても東日本大震災の津波のイメージのみに捉われ硬直していた心がほぐされていくようでした。

 帰路に付く頃には、この街で映画を撮りたいと思い始めていました。2014 年3月、本作プロデューサーとの企画開発の中から日本ではなく海外を舞台にした若者たちの映画を作ろうという話が出て、「しめた!」と思いインドネシアの、それもアチェを舞台にした話をすぐに提案しました。

 物語を作り始め、最初に浮かんだのは、海の沖から一人の正体不明の男が現れるファーストシーンでした。その後、初めてディーン・フジオカさんの写真を見たとき、その中性的で、子供のような無邪気さを湛えた雰囲気に惹かれ、海から現れる男のキャラクターが一気に固まりました。

 そんな「ラウ」の周りに集うのは誰だろう、と思ったとき、日本とインドネシアの若者たちと、それを見守る保護者のような女性、という設定が自然と浮かびました。どこかでこの映画を、『ほとりの朔子』の発展系のように捉えているところもありました。それで、太賀くん、鶴田真由さんのキャスティングはすぐに決まりました。

 苦労したのは、ラウをどう位置付けるかです。ラウは、自然そのもの、植物のように画面の隅にただニコニコ佇んでいるような存在にしたいと思い、セリフはほとんどなくし、彼が何者であるかは観客の想像力に委ねることにしました。

津波や政治に関するモチーフをどこまで入れるかも考えましたが、結局はメッセージも教訓もいれず、アチェという街とその歴史、ラウという自然、そこに住む若者たちと観客にただ素直に出会ってもらうことを意識しました。

 シナハン、ロケハンを経て撮影へと駒を進めるうちに、インドネシアスタッフの優秀さに驚かされました。二十代の若いスタッフが中心でしたが、仕事は早く、そのうえ常に余裕をもって楽しみながら彼らは働いていました。インドネシアで映画を撮った、と話すとよくいろんな人から「大変だったでしょ?」と聞かれるのですが、これほど穏やかに進む現場はスタッフ時代も入れて15年の映画人生で一度もありませんでした。もちろん、言語の壁はありましたが、通訳も含め多くの人の助けを借りて、大きな障壁にはならず、スタッフも、撮影、照明、録音、衣装、ほぼすべてのパートがインドネシア人と日本人の混成でしたが、驚くほどあっという間に馴染んでいました。

「自然のように、植物のようにただそこにいる」というラウの役は考えてみれば難役で、ディーンさんにしかできなかったと思います。ディーンさんの涼やかな目元と微笑みは本当にとても優しく自然の美を見ているようでした。ディーンさんとは、リハーサルと試行錯誤を重ねて、ラウの歩き方や佇まいを作っていきました。

 アチェを訪れる唯一の「外部」の人間であるサチコは、彼女の目線でアチェを紹介する役回りを担う重要な役です。好奇心に満ちた若々しさと、不安感を湛えた視線を共存させた阿部さんはまさにぴったりでした。

 太賀くん、阿部さん、そして彼らを迎えるインドネシアの俳優、アディパディ・ドルケンさん、セカール・サリさん、四人の若者たちのキャスティングは、ジャカルタでリハーサルをしてすぐに成功だったと確信しました。初対面の四人はあっという間に距離を縮め、まるで十年来の親友のようになりました。その融和の速度こそが、この映画に息づく若者たちに求めたものでした。それは、この映画が外国人と現地人の映画ではなく、同じ目線の高さで生きる人々の映画になるためには必要な過程でした。

主演ディーン・フジオカと深田監督の演出

 主人公・ラウは、何者かという定義がなされない、実はかなりの難役だ。セリフや感情表現を極端に抑え、ディーン・フジオカへの演出は、細部に至るまで徹底して行われた。草むらで倒れている少女のそばでラウが手のひらから水の玉を作り出すという、“不思議な力”を発揮するシーンでは、後からCG作業が行われるためディーンは、目線やタイミング、手の動きなど、綿密に打ち合わせをして表現をする。また、人間の姿でありながらも、何かが違うと感じさせるため、歩き方ひとつにしても速度、タイミングにもテイクを重ね、人と話しをする場面では、表情や口の動きなど細部にまでこだわった演出が施されていく。こうして、不思議な存在であるラウ像が完成していくと同時に、今までとは違う、これまでに見たことのなかった新たなディーンの魅力を引き出すことにも成功している。

 そして、ラウと一緒に過ごすことになる貴子、タカシ、サチコには、常に「自然に」「普通に」という点を徹底的にこだわっている。貴子やタカシは、インドネシアに移住し、インドネシア人として、何が「普通」なのか、またサチコは思春期の不安定さと共に異国の地にいることの不安感を、見事に等身大に体現している。一見するとなにげないシーンにおいても、観客は違和感なく各キャラクターを理解していく内に、いつのまにかどっぷり物語の中に引き込まれることになる。この独特な演出が世界の映画人が注目する深田ワールドの魅力のひとつとなっている。

実力派俳優のインドネシア語とキャストの交流

 深田監督は、『ほとりの朔子』(13年)で鶴田真由と太賀を起用後、本作の脚本執筆に取り掛かる際に、自然と日系インドネシア人の親子を、この2人の雰囲気をイメージして書き上げた。 貴子役の鶴田に関しては、過去にテレビ番組でインドネシア滞在の経験があったことから、現地には慣れてはいたが、インドネシア語習得のために日本で練習を行った。撮影中もさらに発音など完璧にするために、現地の女性プロデューサーから指導を受けて、四六時中セリフを反芻していた。

 息子役のタカシを演じる太賀も、クラインクインの3ケ月前からレッスンを受け、さらに現場では共演のアディパティ・ドルケンとセカール・サリから、休憩や待ち時間に、発音の仕方やイントネーションを教えてもらうなどして役作りをしていた。

サチコ役に抜擢された阿部純子は、イルマ役のセカール・サリと撮影現場や宿泊先でもいつも一緒に行動し、すっかり意気投合。イルマがアルバイトをしている雑貨店の近くで2人がばったり出会うシーンや、津波で流された電力船の屋上でガールズトークを繰り広げるシーンは、演出だけでなく、2人の仲の良さが垣間見えるシーンとなった。

年齢の近い太賀、阿部、アディパティ、セカールの4人は撮影の合間やオフ時も、本編同様に仲が良く、いつも一緒に行動し、クランクアップでは涙を流しなら別れを惜しんでいた。

ムスリム文化を感じる撮影現場

 撮影中、ムスリム文化を感じるのは、1日5回聞こえてくるアザーン(イスラムの礼拝の呼びかけ)の響き。この礼拝の時間には、祈りを欠かさず行うインドネシア人スタッフもおり、撮影を止めなければならず、撮影スケジュールにもアザーンの時間が記載されている。日本人スタッフたちもこの束の間の休憩には異国情緒に浸り、深田監督も「アザーンを聞くとインドネシアで撮影していると実感する」と話している。

 そして、もう1つ日本と大きく違うのは、祈祷師の存在。冠婚葬祭など大事な時には、そのシチュエーションに応じて専門の祈祷師に依頼するのがインドネシア流。ロケが多い撮影のため深田組では、「レインストッパー(雨を止ませる祈祷師)」を依頼。クランクイン当日、天気予報は雨か曇りだったが、レインストッパーがいる間の撮影は見事に晴天に恵まれる。そして別の日、雨脚が強くなりそうな曇天に、レインストッパーが空へ向かって祈ると、雨は止み晴れ間が見えて無事にクランクアップ。この驚異の祈祷師の存在に、日本人キャストとスタッフは興味津々。不思議な文化の違いを感じる現場だった。